SANEは来月で会発足から25年となります。
これをきっかけに、今回から少しずつSANEの歴史について書いていきたいと思います。
1987年にエクアドルで大地震があったことをきっかけに生まれたSANE。この地震は午後8時54分と11時10分の2回にわたり、マグニチュード6.9で約千人の死者を出したと記録にはあります。その被災地の一つがカヤンベでした。
この時日本(飯能)に来たばかりだったぺぺ(ホセ・アルメイダ)は、すぐに被災地支援の行動を開始。勤めていた自由の森学園の体育館でチャリティコンサートを行いました。これにはたくさんの友人や彼の語学の生徒、音楽仲間が協力。何時間にもわたるコンサートの結果13万円余の寄付金が集まりました。これを母国エクアドルのぺぺのお父さんであるドン・カルロス(故人。当時70歳)に送金し、ドン・カルロスは車を運転してカヤンベに行き、ここで改めて重大なことに気付きます。それは、地震以前に学校に教室が元々なかったということでした。
ドン・カルロスは『鋼鉄』のような人。自ら現場に立ち、地域の人々を指揮し、ただちに教室の建設を開始。その時の姿は8mmに収められています。10年間政治家たちが約束しては放置してきた学校の教室が1ヶ月もすると出来上がりました。人々は教室ができたことを喜びました。そしてそれ以上に約束を守った人がいるという評判は近隣の村に知れ渡りました。
周辺の村からの声に押されるように、翌年もコンサートを実施。そしてこの動きがやがて会を作ろうという方向に発展して行きます。
1回のチャリティコンサートをやることも大変ですが、会を作ることの困難さはまた別のものがありました。どうすれば継続する会ができるのか、ぺぺと周りの人々は考え、議論を重ねました。1989年の設立前後の資料が残っていますが、けして平坦な道ではなかったことが伺えます。
活動するには現地の受け皿が必要です。ぺぺはエクアドルの友人に電話をし、協力を呼びかけました。『何を夢のようなことを!気でも狂ったのか?』という反応が大かたで、なかなか受け入れてくれる人はいませんでした。けれども粘り強い説得の成果で現地でも少しずつ協力者が出てきました。そして、何という偶然か、ぺぺが勤めていた自由の森の生徒の中にエクアドル生まれの日本人姉妹がいたのでした。エクアドルに住む彼女たちのご両親の参加で会の設立は確かなものになったのでした。
当時インターネットはまだ普及していませんでした。Faxで届いた現地とのやり取りも残されています。学校施設支援で始まった活動でしたが、会の継続を考えた結果、10人の子どもたちに奨学金を送る会としてSANE(エクアドルの子どものための友人の会 Sociedad de Amigos del Niño Ecuatoriano. SANE)は設立されたのです。ぺぺ自身が奨学金によって教育を受けることができたこともあって、教育が重要だということ、そして奨学金への信頼感があったからです。この時エクアドルでも同時にエクアドルSANEが設立されました(エクアドルSANEは2000年まで日本SANEと共に活動。その後は分離したが、現在はなくなっている。日本SANEはSOJAE立ち上げに協力し、2001年よりSOJAEと共に活動)。
当時の文書にはこう書かれています。
このエクアドルの子どもたちのための友人の会は経済的事情のために学校へ行けない子どもを救うという目的で設立されました。
この会の目的は、より住みやすい世界を作ること、そして中等教育を貧しいために受けられないというような特異なケースの責任を少しでも共有しようということです。
こうして1年間(1990年7月まで)10人の子どもたちを支援すると決められました。会員は27人でした。この時この会が2年目もそしてその後も続くと誰が予想したでしょうか。25年後の今、最初に支援した奨学生は現在37歳。立派に社会で活躍し、今のSOJAE(ソハエ)を支えています。
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