2016年4月27日水曜日

洪水被害からの再起                      ー調理室再建にご支援を!

3月に洪水に襲われた、アンデス山中にある村ピサンビージャの学校では、元々古い建物だった調理室が失われてしまいました。
保護者は調理室の再建のためにがんばっていますが、行政からの資金支援は十分でなく、床を作る資金が30万円ほど不足しています。今エクアドルでは地震の復興支援のために増税も予想されており、人々の生活はますます苦しくなっています。
この地域は遠隔地にあり、貧困家庭も多いのが特徴です。SANEではこの学校で学校菜園を行っており、子どもたちは元気に作物を育てています。この作物で子どもにとって重要な給食が準備されていますが、肝心の調理室が壊れた状況下、外で調理しているのが現状です。SANEでは調理室の完成のために支援したいと助成金や寄付をお願いしています。
現在SANEでは地震への寄付も集めていますので、ピサンビージャへの寄付の場合は、連絡欄にピサンビージャまたはpisambillaとお書きください。


右の写真は2015年の調理室の様子。左端がそうです。


この写真は少し遠いですが、調理室がなくなっています。













最後の2枚は外で食事の準備をしているお母さんたちの様子です。


2016年4月22日金曜日

カヤンベの洪水、そしてエクアドル大地震

エクアドルの大地震はまだ続いている余震の中、救済活動が続けられているようです。
SANE/SOJAEの卒業生たちからも色々な情報が来ていますが、大変さを訴えた後で、『でも私たちの連帯は強まるばかり』と元気な言葉で締めくくられています。エクアドルの人々が元気に復活してくれることを心より願っています。

そのような中、日本大使館も『この地震の為、日本との連絡、USAより到着する日本政府の緊急救援物資の受け入れ、専門家、協力隊員の安否確認、移動の指示等で、ほとんど24時間労働になっている様です。』とのこと、現地の日本人のみなさまの努力にも感謝です。

SANEの活動も今後どう展開していくのか、現地で話し合いが始まっています。

さらに、まだアイデアでしかありませんが、防災教育の専門家を日本から派遣したい、地震研究者に日本で学んでもらいたい、といった内容も。時間をかけて実現していきたいです。

一方で、地震被害は少なかったものの、洪水の被害に遭い調理室を失ったカヤンベのピサンビージャの学校では、子どもたちの給食を確保するため、住民自身が調理室建設に取りかかっています。ところが、資金が行政から入らなくなったため床が作れずに困っているとの知らせが。この学校はSANE/SOJAEの支援で学校菜園を行っており、子どもたちの労働によって見事な野菜が収穫されています。せっかくの野菜が生かせなくなってしまうので、調理室の完成が急がれるのですが、資金調達の方法を模索しています。

みなさまからのご支援を心よりお願いします。

2016年4月21日木曜日

エクアドル大地震ーSANEでも募金を始めました

エクアドルのために何かしたいと思っていらっしゃる方も多いと思います。
私たちも現地と話し合ってきましたが、以下のように募金を進めることになりました。
ご賛同いただける方はご寄付をよろしくお願いいたします。

趣旨:
私たちエクアドルの子どものための友人の会(SANE)は、1987年のエクアドル大地震をきっかけに生まれた会です。この地震の時、埼玉県飯能市に住んでいたエクアドル人ホセ・アルメイダは、故郷の子どもたちの惨状を思いました。そして彼自身が貧しい生活の中でたくさんの心ある人々に助けられて勉学に励んできたこと、教育を受けることができたからこそ社会の在り方を考え、行動できる自分になれたことを思い、教育支援の決意をしました。その時考えたことは、
『支援の先まで見通せる規模の支援をする、寄付されたお金は1円も無駄に使わない』
ということでした。そこから始まった活動は、26年後の今多くの人々の人生を変え、エクアドル社会に200人以上の青年たちを送り出しています(現大学生を含む)。その時支援に入った地域では今も学校菜園事業や植林事業が行われ、子どもの権利保護のための活動が続いています。今回の地震でも卒業生の一人は専門家として被災地に入って仕事をしています。

今回の地震は、震源地が私たちの活動地から離れていること、小規模な会でそのほとんどが無償ボランティアということも踏まえ、私たちの会では
『教育支援の分野でやがて必要となる援助、支援の先が見える援助』
を現地と連絡を取りながら今後追求します。
具体的に支援の方法、支援先はまだ決まっていませんが、どのくらいの可能性があるのかは寄付金の集まり具合にもよりますので、寄付の呼びかけを始めることにしました。

以上の趣旨にご賛同の方は下記の寄付先にご寄付をお願いします。

なお、緊急支援も重要です。緊急支援は日本からも別の組織が行っていますので、お問い合わせいただければご紹介します。

エクアドル震災寄付金振込口座(ゆうちょ銀行):
*ゆうちょ銀行からの場合 
 記号番号:10330-81085501

*他銀行からの場合
 店名〇三八(漢字です)
 店番:038
 預金種目:普通貯金
 口座番号:8108550
 トクヒ)エクアドルノコドモノタメノユウジンノカイ



2016年4月20日水曜日

この大変さを完璧にわかる国があるとしたら、それはまさに日本ですー卒業生の言葉

栃木県の那須にあるアジア学院はSANEの卒業生アンドレア(飯能にも来たのでご存知の方もおいでかと思います)が2012年に9か月間留学生としてお世話になった関係もあり、すぐにご心配のメールをいただきました。これを、そのころSOJAE(SANEと一緒に活動しているエクアドルの組織)の代表をしていた同じく元奨学生のディエゴ(彼も2011年の震災のすぐあと、SOJAE代表として社会貢献者表彰の式典に出席するために飯能に来て、アジア学院を一緒に尋ねました)に転送したところアジア学院宛に以下のような返信が来ました。英語ですのでそのまま転載させていただきます。
この中で、彼は『自分たちの状況を十分に理解できる国があるとしたらそれはまさに日本です。』
と書いてあります。この言葉は今なぜSANEがエクアドルのために何かできないかと模索していることの意味を教えてくれます。

エクアドルからの言葉をお読みいただけるとうれしいです。

ARI Team:
My Name is Diego Varela, I ‘been part of SANE-SOJAE team for more than 15 years. In 2011 I was on your training center together with YuKo Sugita.

It is a reliefe to let you know that all our colleagues from Sojae and their families are doing well through this hard moment. If there is country that can fully understand this situation, Japan is definitely that country. We appreciate your words.

The situation for our country is difficult, but also the felling of solidarity all over the country has shown that we are going to be able to get over this disaster. The most affected region by the earthquake is Manabí, a province in the cost of Pacific Ocean. Right now Rescue teams are working so hard trying to find people alive under the rest of buildings. The rest of people are donating the basic things needed in this moment and many citizens are working as volunteers.

Thank you again for your concern in our situation, We know Japan is going through a similar situation rig now.

Best regards,

Diego Varela.

ご心配の声、寄付のお申し出、お問合せをありがとうございます

みなさまより多くのご心配やお問合せ、寄付の申し込みなどをいただいています。熊本の地震で大変な時に、エクアドルのことにも思いを寄せてくださる日本の皆様に心より感謝します。

先ほどのダーウィンの報告にもあります通り、なかなか正確な情報を得ることは難しいのが現状です。多くの支援団体が被災地に向かっているようです。

SANEも現地SOJAEや日本人を通して日本大使館の方ともコンタクトを取り、どのように対処をすべきか検討中です。現在アメリカに在住の、SANEの創始者であるホセ・アルメイダとも連絡を取っています。

私たちは教育支援の会です。そして私たちの会は、大きな組織に寄付をして支援を託すのではなく小さな規模でも行き先が良く見える支援をする会として設立されました。この精神を今回も活かして、現地と密に連絡を取り合って良い方法を考えていきたいと考えています。ご寄付の宛先など、どうぞ今しばらくお待ちいただけますよう、お願いいたします。

エクアドル大地震ー現地からの報告②

ダーウィンからの報告を掲載します。

2016年4月16日のエクアドル地震

ダーウィン・バスコネス

土曜日の午後6時58分にマグにチュード7.8の地震が太平洋沿岸のペデルナレスで起きました。

その日は母と弟のカルロスと一緒に家にいたのですが(カヤンベ市の周辺地。震源から約180㎞離れている)、二人は夕食の準備をしていました。私は生徒に送らなくてはならないスライドを作っていました(ダーウィンは高校教師です)。その時机や壁が揺れるのを感じ始めました。家は狭く庭の方が広いので庭に出ました。母と弟も同じように外に出ました。私たち三人は、通りにある電柱が動いているのやドアや窓がぎしぎしと音を立てるのを驚きと共に見つめました。それはおさまるどころかだんだん大きくなり、1分以上続きました。近所の人たちは通りに飛び出していました。恐怖の叫びと悲鳴がし、母は祈りをささげていました。

最初の揺れが収まったとき、私たちはテレビとラジオもつけ、弟のフランシスコに急いで電話をしましたが電話はつながらず、これは重大だと感じました。何分か後にFacebookを通じてフランシスコと連絡が取れました。フランシスコは キトの国立工科大学の地球物理学研究室で仕事をしていました。( ここは国の地震と火山の監視の責任を負っている機関です)彼は無事で、この機関はただちにマグニチュードは6.9で震源地はマナビ(沿岸地方の都市)だと発表していました。

ラジオやテレビではまだ何の情報もありませんでした。1時間後放送局は視聴者から情報を集め始めましたが、正確な情報はありませんでした。その一方でFacebookではアメリカ合衆国のCNNスペイン語放送がマグニチュード7.8の地震であることなどを発表しているとのことでした。

地震から2時間後、テレビでは何が起きたのか放送が始まりました。けれどもその情報は地球物理学研究所、ソーシャルネットワーク(Facebook, twitter y WhatsApp)といったものからとってきた内容でした。主な内容は、グアヤキルの重要な橋が倒壊し、車が落ちて死者やけが人が多数出たというものでした。

夜9時半になって再度弟と話をしましたが(この時は電話がつながっていました)、情報の不足は大変なものでした。震源地の情報がないこと、震源地が間違っているいこと、揺れはとても大きいとのことでした。
 
翌日、アクセスがあった被災地の写真が届き、状況は大変悪いものでした。
 

被災地の主要産業は観光でした。たくさんのホテルは全壊してしまいました。(土曜日の夕刻でしたので)多くの人々はホテルに戻りシャワーを浴びて夕食に出かけようとしていたところでした。突然の地震にがれきの中で多くの人々が動けなくなってしまいました。
480人の死者、2000人のけが人、 行方不明が1700人と発表されています。 (4月19日現在).

 被災しなかった各県からは連帯が表明されています。被災地に送るために保存可能な食料、服、水など緊急に必要なものの収集をしています。また、色々な国からレスキュー部隊や食糧などの支援が届いています。
 
けれども復興までには何年もかかるでしょう。

*ダーウィンの報告は今後も継続されます。



 
Terremoto del 16 de abril de 2016 - en Ecuador

 

Testimonio Darwin Vásconez

 

El sábado a las 18h58 minutos se produjo un terremoto de 7,8 grados en la escala de Richter, con epicentro en las costas de Pedernales.

 

Ese día con mi familia nos encontrábamos en casa, mi madre y mi hermano menor (Carlos) estaban cocinando, yo estaba en mi cuarto preparando unas diapositivas que debía enviarles a mis estudiantes. En esos momentos comencé a sentir que el escritorio y las paredes se movían, dado que mi casa es pequeña y que el patio es amplió, salí al patio; mi madre y mi hermano habían hecho lo mismo. Una vez reunidos, vimos con asombro como los postes de luz (Ubicados en la calle) se movían, a la vez que las puertas y ventanas crujían; y el movimiento en vez de aplacarse aumento y se prolongó por más de un minuto. Mientras mi familia salió al patio, nuestros vecinos habían salido a la calle. Escuchamos gritos y suplicas. Mi madre rezaba.

 

Una vez que terminó el sismo inmediatamente llamé a mi hermano, al tiempo que prendimos la radio y la televisión en espera de noticias. Las líneas telefónicas estaban inhabilitadas. Lo que me hacía suponer que el evento había sido grave. Minutos después –a través de Facebook- pudimos comunicarnos con mi hermano Francisco, que estaba en Quito, y trabaja en el Instituto Geofísico de la Escuela Politécnica Nacional (Institución responsable de monitorear sismos y volcanes en el país) él se encontraba bien, en el cuarto que arrienda, pero preocupado, ya que el geofísico había publicado que el sismo era de 6,9 grados y que su epicentro eran las costas de la provincia de Manabí. 

 

En la radio y en la televisión no había ninguna información. Luego de una hora (Aproximadamente) una emisora de Quito comenzó a receptar llamadas telefónicas donde radioescuchas informaban que el sismo se había sentido con gran intensidad y que en algunos sectores de la capital no tenían luz. En Facebook, en cambio se había publicado información de CNN en español donde el Servicio Geológico de Estados Unidos señalaba que la intensidad del sismo era de 7,8 grados; al tiempo que el Geofísico informaba sobre varias réplicas, y rectificaba la información inicial sobre la intensidad del sismo acogiéndose a la proporcionada por el Servicio Geológico Norteamericano.

 

Dos horas después del evento sísmico, en la televisión se comenzó a informar sobre lo sucedido, pero las fuentes eran: el Geofísico y lo que se publicaba en las redes sociales, Facebook, twitter y WhatsApp. La principal información daba cuenta de que en Guayaquil se había caído un puente a desnivel (Muy importante), y que atrapó a un vehículo, el resultado un muerto y un herido.

 

A las 21h30 minutos nuevamente conversé con mi hermano Francisco (Esta vez por teléfono, pues ya estaban las líneas operativas), se encontraba en el geofísico y las noticias eran muy malas, pues la falta de información desde las zonas ubicadas en el epicentro era un mal indicador, además la intensidad del terremoto hacía prever lo peor.

 

Al día siguiente, llegaron las primeras imágenes de algunas de las zonas afectadas (Aquellas a las que había acceso) y el panorama era desolador al igual que los testimonios.

 

La principal actividad económica de la zona afectada era turismo; muchos hoteles se derrumbaron por completo. Un testimonio señalaba que a la hora en que ocurrió el sismo la gente suele regresar al hotel para bañarse y luego salir a merendar. Por lo tanto, hay mucha gente atrapada entre los escombros. Las cifras oficiales hablan de 480 muertos, más de 2000 heridos y 1700 desaparecidos (Hasta el 19 de abril).

 

En las provincias que no fueron afectadas hay varias muestras de solidaridad, se están recogiendo alimentos no perecibles, ropa, agua, y otros productos de primera necesidad para enviarlos. También la ayuda ha provenido de varios países con expertos en rescate, alimentos y vituallas. Todo esto ayuda a paliar la situación actual. No obstante, la reconstrucción tardará varios años.

 

2016年4月19日火曜日

現地からの報告

その後、現地の多くの卒業生から無事の報告や、キトで大きな揺れがありびっくりして外に出たという話などがありました。また、カヤンベのスタッフのダーウィンとも話ができました。キトもカヤンベも大きな揺れがあったものの、今のところ会の関係者に人的被害などの報告はないということでした。しかし、SANEの創設のきっかけとなった1987年の地震は6.9だったということで、今回の方がずっと大きいです。被災地域は海岸地方の観光地でした。地震発生が週末だったこともあって多くの人がホテルに宿泊していたそうです。そのホテルが全壊してしまったために、まだ多くの人が建物の下敷きになり、見つかっていません。
『私たちはとても連帯感が強い国民だから、みんな何かで支援に関わろうとしています』とダーウィン。ラテンアメリカの各地からも救援が入っていますが、何か彼らの姿を見ると悲壮感というよりも使命感にあふれて凛々しい感じがします。困ったときはお互いさまという文化を強く感じています。

卒業生で昨年大学を卒業したばかりのダーウィンの弟のフランシスコは地球物理学(火山学)を学んでおり、これから大学院に進みたいと考えています。彼は参加している地球物理学のチームと共に余震の調査のために被災地に向かったそうです。余震はまだ続いています。彼からも連絡があり、情報を知らせてくれるそうです。

また、長年カヤンベで協力してくださった元教育委員のデ・ラ・トレー氏は、息子さんが被災地で遺体捜索の活動に携わっているとのことでした。





2016年4月18日月曜日

エクアドルで大地震

エクアドルで16日にマグニチュード(M)7.8の地震が起きました。政府の発表によると、現在わかっている死者が246人、負傷者が2527人とのことです(17日の内務副大臣の発表)。現地では、倒壊した家屋やホテルの下敷きになった人々の懸命の救出活動が続けられています。

地震が発生したのは16日午後6時58分(日本時間17日午前8時58分)で、揺れは約1分間続いたとのことです。震源は首都キト(Quito)の北西約170キロの海岸部です。
被害が大きかった町の一つ、ペデルナレス(Pedernales)の町長によると、多くの人々が倒壊したホテル約40軒の下敷きになっており、未確認の死者は最大で400人に上るとも推定されるそうです。最も被害の大きかった地域には治安部隊1万4000人、医療従事者241人が派遣されているようですが、おそらく現地は大きな混乱が続いていると思われます。
英国のオープン大学(Open University)のデービッド・ロザリー(David Rothery)教授(地球科学)によると、M7.8という地震の規模は、16日に熊本で起きたM7.0(USGS公表値)の地震よりも「総エネルギー量でおそらく約20倍大きい」ということです。同教授は、2つの地震には因果関係はないとしています。(以上FBB通信の記事より)

地震があったのは日本時間だと17日の朝のことでした。エクアドルのSOJAEのスタッフから熊本の地震のお見舞いメールをいただいて、その返事に『日本とエクアドルは同じ環太平洋地震帯ですね』と書いたところでした。ニュースを見た一人のマドリーナ(奨学生との文通をやってくださっている方)の方から電話があり地震を知りました。

SANEとしてただちに現地と連絡を取り、ボランティアスタッフのセシリア・キラチャミン(キト在住)と話をしましたが、活動地のキトやカヤンベは大きな揺れに襲われ、カヤンベに入る道路の土砂崩れなどはあったものの奨学生やメンバーは全員元気であるとのことでした。先日洪水に襲われたカヤンベの学校の様子も懸念されますが、まだ情報は入っていません。

SANEができたのも1987年の大地震がきっかけであったことを思い出します。このときは震源がカヤンベ付近でした。日本もエクアドルも地震からの復興は並大抵ではありません。九州の被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。そして、エクアドルというまだまだ社会的基盤のぜい弱な国において起きてしまった、より大きな地震にも関心を向けてくださりありがとうございます。
多くの会員、ボランティア、友人のみなさんからご心配のお問い合わせをいただき、ありがとうございました。新たな情報が入りましたらお知らせいたします。