2020年11月29日日曜日

SANE /SOJAEの奨学生事業(1) 始まり

嬉しいことに、SANEの奨学生事業に関心を持ってくださる方が増えているようです。

なぜ奨学生たちが卒業後もこの活動に協力するために残るのですか?どうすればそんな子たちが育つのでしょうか?

そんな声にどうお応えすれば良いのか、良い機会ですのでSANEの活動を振り返ってみることにしました。少しお付き合いください。

SANEの創始者であるホセ・アルメイダ(通称ぺぺ、現在72歳)は、貧しい家庭に育ちました。父親のカルロスは非常に賢い人で会社の仕事でパイロットまでやった人でしたが、小学校を2年生までしか行っておらず、どんなに優秀でも学歴がないと会社などで認められることはないと痛感していたそうです。そんなこともあって子ども達は大学まで出て欲しいと願っていました。ぺぺは子どもの頃から母親がアイスクリームを作って道で売るのを手伝ったり、カトリックの学校で奨学金を得ながら自分でも働きながら学校に通いました(カトリックの学校では持つものが持たないものを助けるのは普通のこととして実践されていたようです)。ぺぺも優秀でエクアドルでは一番難しい大学を出て繊維技術者になり先輩の経営する会社で活躍するようになりましたが、技術者になってからも奨学金を得て当時世界的に有名であった日本の繊維技術を2回も学びに来ています。

ぺぺは積極的に自分の可能性に挑戦する性格でした。本を買えずに街で拾った新聞を読んで学んだと言います。奨学金の可能性にも積極的に挑戦をして獲得し、日本以外にもメキシコやドイツにも行っています。貧しい家庭の子と見られていた自分が、優秀な大学を出て技術者となって世の中に認められるようになったこと、カトリックの学校で進歩的な教師からの影響も受けたことなどから、社会を見る目が養われ、教育の大切さを知ります。このことはSANEの奨学金事業の開始に大きなきっかけとなりました。

とはいえ、彼は最初からそのつもりでSANEを作ったわけではありません。1986年に、奥さんのマリリンが飯能市にある自由の森学園に職を得て来日するのについてきた形で(なにしろ仕事も両親も置いてくる形でしたから大変なことだったと思いますが)来日しました。その翌年にエクアドルで大地震が起き、ぺぺも自由の森で教えるようになっていましたので、ここの体育館で復興支援のチャリティーコンサートが開催されました。このコンサートの時に呼びかけた寄付が13万円になり、ぺぺは迷わず母国の父親のカルロスに送ったのです。カルロスは頑固で一直線な人。被災地に行き(実際は元々教室がなかったのですが)地域の人々とともに教室を作ったのでした。この活動が評判を呼び、他の村からの声に応えて翌年もチャリティーコンサートを行い、学校の支援をします。これがきっかけとなり、2年後にSANEは設立されるのですが、SANEは学校建設のための会ではなく、奨学生支援のための会として発足します。

なぜ奨学生事業を行う会としてSANEが始まったのか。それは、無理せず、できることを、確実に、そして息ながく、というぺぺに協力する日本人の思いとぺぺの考えが一致したことが大きかったと思います。一人の子どもを時間をかけて育てていく活動なら、一回の支援で終わるのではなく継続して関わってもらえるということ、ぺぺ自身が奨学金で学んできたこと、そして日本人の教育への信頼感があったのだと私は考えています(私、杉田はSANE創設に関わってはいません。後でインタビューで聞いた話です)。ちなみに、奨学生事業に反対する日本人も何人かいました。その理由は、奨学生事業は一握りの子どもに特権を与えてリーダーを育てることになり、育った子ども達は自分のことしか考えなくなるのではないかという懸念からです。この意見は一理あることに間違いはありません。奨学生事業に反対した人々はSANEに参加することはありませんでしたが、この警告は今も生きています。

また、奇跡のようなことですが、当時自由の森学園にはエクアドル育ちの二人の姉妹がいたのです。彼女達のエクアドルに住んでいるご両親が、ぺぺを応援する日本人の思いに応えるためにエクアドルでの組織づくりと活動に、影となり日向となって協力してくださったことも大きかったのです。

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